2021/08/06 21:05

昨年、養老孟司先生が隣町の名寄市で講演され、聞きに行くことができました。

登壇した養老先生は、なんだか歩くのも辛そうなご様子…
心配していたのですが、先日「養老先生、病院へ行く」を読んで納得しました。昨年、心筋梗塞で入院されていたとのこと。退院後の名寄講演だったのですね。
さて講演では、著書「遺言。」でも書かれている「感覚と意識」について話されていました。

感覚は身体の感覚器からの入力で、光や音とか。人の意識は、感覚を受け取るとすぐさま意味に変換しがちである。

例えば、焦げ臭いと、すぐに、火事じゃないの?と連想しちゃう。
入力に対して、常に意味を求める。あまりにも生活に「意味」を求めすぎて、意味のない入力=ノイズを許容できず、過剰にノイズを排除するようになってしまっている、というような内容です。

なんにも使うあてもないような物は真っ先に断捨離、庭の雑草もことごとく丸刈りして、ノイズは排除する。
そうやって自分の周りを心地よい(理解しやすい)意味で満たしている。ノイズの意味を考えるって、多分大変だから。というか、ノイズに意味は無いのでしょう。


先日、数年ぶりにバイクに乗って遠出しました。
身体にダイレクトに響く排気音と振動。容赦なく吹き付ける雨風。暑い寒いの調節は一切不可能。バイクってこんなに「感覚」に溢れた乗り物だったんだ、といえば文学的ですが、要はすごいノイズの塊ってこと。
レンタルバイクだったので、帰り道はエアコンの効いた車で快適に。どうしてあんなむき出しの乗り物で何百キロも走らなきゃならなかったんだって思ったけれど、でも、気持ちはものすごい爽快感に包まれていたんです。
これって、ありきたりですけど、「カタルシス」って感じ。
ノイズを排除しないけど意味も考えない。ただただ感覚器への入力だけ。意味は無いけど頭の中でそれを味わう。なんか普段使わない筋肉を使ったような感じかな?
…涼しい車内で意味を考えてみたら、そういうことかとわかりました。

スペシャルティコーヒーの世界では、味やフレーバーの感覚はすべて○○のよう、と表現されます。オレンジのよう、とか。
評価の上では「なんだかわからないけど美味しい」という訳にはいきません。だからスペシャルティコーヒーの世界の発展もあったわけですし。
ロースターはこうやって○○のよう、といった「意味」の世界に生きています。けど、多くのお客さんは「美味しいなぁ」の「感覚」の世界に近いでしょう。
その間のとり方が大切なんだとろうなって、バイクと養老先生が教えてくれました。

もしかして、ロースターが意味を説明することで、お客さんに感覚と意識の折り合いをつけてもらっている可能性もある。
ある種の浅煎りは酸味が強くてお客さんも酸っぱいなぁと感覚的には思っていても、この酸味は○○で、△△のフレーバーなんですよと説明されると納得しちゃうのかもしれない。苦すぎる深煎りも同じかもしれない。
感覚的に酸っぱいものは酸っぱいし、苦いものは苦い。それを理解しようと頭を使うと疲れちゃう。

お客さんの感覚器にゆだねられるカップを、そっと差し出す。
それで良いのですね、養老師匠。

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